2026年6月23日。
沖縄の慰霊の日。
今年のこの日、
私は平和祈念公園へ行く気持ちにはならなかった。
行かなければいけない場所のようにも思っていた。
けれど、どうしてもそこへ向かう気持ちにはならなかった。
それで私は、具志頭の公園へ行った。
そこには慰霊の塔があり、名が刻まれた碑があった。そ
こからは、摩文仁の方角も見える。
大きな式典の場ではない。
観光地のような華やかさもない。
ただ、静かに祈るための場所がそこにあった。
私はそこから、慰霊の祈りをした。
正直、そこに人が来るとは思っていなかった。
けれど、ぽつりぽつりと、祈りに来る家族の姿があった。
誰かの名前の前で手を合わせる人。
静かに慰霊碑を見つめる人。
何かを語るでもなく、ただその場に立っている人。
その姿を見て、あらためて思った。
6月23日という日は、
沖縄にとって本当に大切な日なのだと。
沖縄全体にとっても、
そしてこの南部に暮らす人たちにとっても、
特別な重みを持った日なのだと。

慰霊。追悼。鎮魂。
亡くなった方々の魂が安らかであるように祈ること。
悲しい戦争の記憶を忘れないこと。
同じことを二度と起こさないために、その記憶を受け継いでいくこと。
それは、本当に大切なことだと思う。
私はそれを否定したいわけではない。
平和を祈る人を否定したいわけでもない。
「戦争がなくなればいい」
「平和な世界になってほしい」
そう願うことも、祈ることも、
とても大切なことだと思う。
ただ、私はそこで終わりたくない。
私は、
世界平和のために能動的に何かをしたい。
この感覚は今日突然生まれたものではない。
子どもの頃、サイパンに連れて行ってもらった時のことを思い出す。
戦争にまつわる場所に立った時。
慰霊碑の前に立った時。
胸の奥が熱くなって、
涙が出そうになって、
言葉にならない何かがこみ上げてきた。
でも、それは子どもの頃だけではない。
それからもずっと、
そういう場所に行くといつも同じような感覚があった。
戦争の跡が残る場所。
誰かが祈りを捧げてきた場所。
失われた命の気配が残る場所。
そういう場所に立つたびに、私は思ってきた。
何かをしたい。
何ができるのかはわからない。
でも、ただ悲しむだけではなく、
ただ祈るだけではなく、
自分も何かをしたい。
今日、具志頭で祈りながら、
その感覚がまた戻ってきた。
世界平和とは何なのだろう。
戦争がないことなのか。
争いがないことなのか。
人が不条理に殺されないことなのか。
もちろん、それはそうだと思う。
けれど、「戦争がなくなればいい」と言うだけでは、
自分の中ではどこか足りない。
平和な世界とは、具体的にどんな世界なのか。
そこを見ずにただ平和という言葉だけを置いても、
私は前に進めない。
争いは、なぜ起きるのか。
人はなぜ、人を傷つけるのか。
国はなぜ、国を侵すのか。
宗教や正義や歴史や資源や経済は、なぜ人と人を分断するのか。
そこを見たいと思う。
争いの根には、『違い』があるのだと思う。
信じているものの違い。
持っているものの違い。
持っていないものの違い。
土地の違い。歴史の違い。宗教の違い。正義の違い。暮らしの違い。
人はそれぞれ、自分たちの正しさを持っている。
守りたいものがある。
奪われたくないものがある。
失いたくないものがある。
その違いを受け入れられない時、
人は相手を否定する。
自分たちの正しさで、
相手を染めようとする。
自分たちにないものを、
相手から奪おうとする。
自分たちの不安を、
相手への攻撃に変えてしまう。
そこに、争いの始まりがあるのではないかと思う。
資本主義そのものを否定したいわけではない。
人に必要とされるものを作る。
価値を届ける。
その対価としてお金を受け取る。
そのお金で、また誰かの価値を受け取る。
その循環は、決して悪いものではないと思う。
けれど、効率だけになった時。
拡大だけになった時。
もっと速く、もっと多く、もっと大きく、もっと便利に、もっと豊かに、という欲望だけが前に出た時。
人は何かを見失うのかもしれない。
本当は、
その土地で、
その地域で、
そのコミュニティで、
成り立つ範囲があるのかもしれない。
ないものがあるなら、
本当にそれは必要なのか。
別のもので代わりにならないのか。
効率を求めすぎなければ、
違う暮らし方があったのではないか。
そんなことも考える。
そして、最後に自分に戻ってきた。
「で、私は何をするのか。」
平和について語るだけなのか。
祈るだけなのか。
政治家になるのか。
大きな運動を始めるのか。
たぶん、そうではない。
少なくとも、今の私が今日からできることはそこではない。
私にできること。
私がやりたいこと。
それは、写真と言葉で人を伝えることだ。
ここにこんな人がいる。
こんな土地にこんな暮らしがある。
自分たちとは違う歴史を持ち、
違う祈りを持ち、
違う価値観を持って生きている人がいる。
でも、
その人にも家族がある。
仕事がある。
喜びがある。
悲しみがある。
守りたいものがある。
その人がその人として生きている光がある。
それを知ること。
人と人が知り合うこと。
違いを消すのではなく、
違いを持ったまま出会うこと。
私は、そこに平和の入口があると思っている。
知らない人は、簡単に敵になる。
知らない土地は、簡単に記号になる。
知らない文化は、簡単に誤解される。
けれど、
顔を知ってしまったら、簡単には敵にできない。
物語を知ってしまったら、簡単には奪えない。
祈りを見てしまったら、簡単には否定できない。
だから私は、写真を撮りたい。
世界平和のために、写真を撮りたい。
それは、
大きなスローガンを掲げることではない。
誰かを論破することでもない。
正しさを競うことでもない。
目の前の人を、ちゃんと見ること。
その人がその人として在る姿を撮ること。
その土地に生きる人の祈り、暮らし、誇り、美しさを記録すること。
そして伝えること。
「ここに、こんな人がいる」と。
それが、今の私にできる世界平和なのだと思う。
慰霊の日。
具志頭の公園で、摩文仁の方角を見ながら祈った。
その場所で私は、ただ過去を悼んでいたのではない。
これから自分が何をして生きていくのかを見つめていたのだと思う。
祈りは大切だ。
そして私は、その祈りの先で写真を撮る。
世界平和のために、写真を撮る。

