以前、カンボジアの首都プノンペンにある、ストゥンミエンチャイという場所へ行ったことがある。

そこには、大きなゴミの山があった。

ゴミ山のそばで暮らしている人たちがいて、そこからお金になるものを拾って生活している人たちもいた。

ガラスやプラスチックの破片が散らばる中を、裸足で走っていく子どもたちもいた。

初めてその場所に行ったとき、そこにあるものを「いい」とか「悪い」とか、そういうふうに判断したかったわけではなかった。

ただ、見てみたかった。

そこに、どんな人たちがいて、どんなふうに暮らしていて、
どんな表情で毎日を生きているのか。

そして、カメラを持って、その場所にあるものを撮った。
もちろん、厳しい環境だった。
でも、そこで見た子どもたちは、ずっと悲しい顔をしていたわけではなかった。

笑っている子もいた。
友達と走り回っている子もいた。
大人たちも、それぞれの場所で懸命に生きていた。

その姿を見て、この生き様を残したい。
そう思って、写真を撮った。

━━━━━━━━━━━━━━

それから5年か6年くらい経った頃だったと思う。
もう一度、そこへ行くことになった。

事前に聞いていた話では、そこにあったゴミの山はなくなり、開発が進んでいるらしい。

あの場所が、今はどうなっているんだろう。
そう思って、以前撮った写真をプリントして、一冊の本にまとめたものを持って行った。歩きながら、その本を見せていった。

すると、
「ああ、懐かしいね」
そんなふうに写真を眺めながら話してくれる人がいた。

数年前の自分たちの暮らしが、写真の中に残っている。
そして今、その写真を見ながら、当時のことを話している。

そのとき感じたのは、
自分の写真によって、過去と今がつながっていくような感覚だった。

写真の中に残っている世界と、今そこにいる人たちがつながっていく。
そして、その写真を見た人自身も、その世界の中に少し入っていくような。
そんな感覚があった。

━━━━━━━━━━━━━━

写真って、何か大きな意味を持たせなくてもいいのかもしれない。

もちろん、その写真によって誰かの人生が変わることもあるかもしれない。
何かが生まれることもあるかもしれない。
社会を動かすことだって、もしかしたらある。

そうなったら、それはそれ。

ただ、それを最初から意図して撮らなくてもいいんじゃないかと思っている。

「こういう効果を生み出そう」
そうやって意味を決めてから撮るというより、ただ、そこにあるものを見る。
その人を感じる。
そして、心が動いた瞬間にシャッターを切る。

そのほうが、自分にとっては自然なんだと思う。

写真は、一瞬を切り取る。
だから、その一瞬以外のことは写っていない。

その人が何を考えていたのか。
その前に何があったのか。
このあと何が起きたのか。

全部が写っているわけではない。

でも、だからこそ面白い。

写っていないものがあるから、人はそこに想像を重ねる。
同じ写真を見ても、感じることは人によって違う。
ある人には明るく見える写真が、別の人には少し寂しく見えるかもしれない。

懐かしく感じる人もいるかもしれない。
何も感じない人もいるかもしれない。

それでいいと思う。

━━━━━━━━━━━━━━

そして、写真には「想像する」ということだけじゃなくて、もっと理屈にならない部分もあると思っている。

言葉ではうまく説明できない。
なぜかわからないけれど、なんとなく惹かれる。
見た瞬間に、何かを感じる。
自分の中にある記憶や経験と重なって、言葉になる前の何かを受け取る。

そういうことって、あると思う。

写真を見て、
「この人はこういう人なんだ」
と頭で理解するだけじゃない。

その人の表情や空気感、光、場所。
写真の中にあるいくつもの要素が、自分の無意識の部分に触れて、何かを感じ取る。

それは、理屈では説明できない。

絵画を見ていても、同じようなことを感じる。
専門的な知識がなくても、なぜか心に残る絵がある。

何が描かれているのかを正確に説明できなくても、
「なんか好きだな」
と思うことがある。

表現って、そういうものなのかもしれない。

━━━━━━━━━━━━━━

もちろん、意図を持って写真をつくることもできる。

こう見せたい。
こう感じてほしい。
こういう印象を与えたい。

そうやって計算して写真をつくることもできるんだと思う。

それが悪いわけではない。

ただ、自分が写真を撮るときには、そこを計算しすぎたくない。
その人と向き合っている時間に夢中になる。
その場にあるものを、そのまま受け取る。

そして、
「あ、今だ」
と思った瞬間にシャッターを切る。

そうしていると、余計なものが少しずつ外れていく。

「こう見せたい」という意図も。
「こうしたほうが写真として正解かな」という計算も。
「こう撮ったら喜ばれるかな」という考えも。
そういうものが薄くなっていく。

そして残るのが、
その人がただそこにいること。

その人の表情。
その場の空気。
その瞬間の光。

そういうものなんだと思う。

もしそこに美しさがあるなら、
その美しさは写る。

もしそこにその人らしい魅力があるなら、それもきっと写る。

だから、無理に魅力をつくる必要はない。

何かを足していくというより、
余計なものを外していく。
その先にあるものを、ただ写す。

それが、自分にとっての写真なのかもしれない。

そして、その写真が撮った直後に誰かに届くのか。
何年も経ってから届くのか。

それは、撮った時点ではわからない。

ストゥンミエンチャイで撮った写真だって、そうだった。

撮ったときには、まさか数年後にその写真を本にして、もう一度その場所へ持って行くなんて思っていなかった。

でも、写真は残っていた。
そして数年後、その写真を通して、過去と今がつながった。
写真の中の世界と、今を生きている人たちがつながった。

そして、その写真を見た人の中にも、何かが残っていく。

写真って、そういうものなのかもしれない。

何かを意図して届けるだけじゃなく、
その人の中にある、まだ言葉になっていない何かに触れる。

そして、時間を越えて、誰かと誰かをつないでいく。

その余白があるからこそ、写真は面白い。