実は沖縄に移住した私。そして2ヶ月が経った。

数ヶ月前、東京を離れることを決めたあの日から、あれよあれよという間に沖縄に流れ着いた。
この島の文化に触れたい、人と出会いたい。そんな思いを抱えて、カメラとともに南の島に身を置いた。

今日は「沖縄慰霊の日」。
太平洋戦争末期、日本で唯一の本土地上戦が行われた沖縄。その組織的戦闘が終結したとされる日だ。

静かに祈りを捧げに行きたいと思った。けれど、ここ数日の慌ただしさと心のざわつきもあって、少しだけ休もうかという気持ちも頭をよぎる。
それでも、体は自然と動いていた。気づけばカメラを手に取り、車に乗り込んでいた。

会場へ向かう途中、調べていた駐車場はどこもいっぱいだった。
「今日は撮れないかもしれないな」そんなあきらめの気配が、胸の奥でささやいた。

それでも、ふと見えた「臨時駐車場」の文字に導かれるようにハンドルを切る。
けれど、行けども行けども見つからない。少し迷いながらも、「いったん家に戻って、タクシーで行こうか」と考えはじめたそのとき。
ぽつんと、その駐車場は現れた。

臨時駐車場からはシャトルバスが出ていた。車を停め、バスに乗ると、出発の直前、駐車場はすでに満車になっていた。
まるで「行くべきだ」と背中を押されたような、不思議な必然。

バスは田んぼや畑の広がる沖縄の田舎道を進む。
ゆっくりと揺れる車窓の向こうには、のどかな家々と、青く抜けた空。


けれど、この美しい景色の中で、かつて多くの命が奪われたことを思うと、胸の奥がじんと熱くなる。

「この土地で、何が起きていたのだろう」
「どんな思いで、人々は日々を生き抜いたのだろう」

会場に着くと、すでに式典は始まっていた。
白いテントの向こうから、朗読や音楽、静かな拍手が風に乗って聞こえてくる。

入り口の前では、地元の新聞「沖縄タイムス」の特別号が配られていた。
「不戦誓う」という大きな文字。
その言葉に、足を止めずにはいられなかった。

青い空の下、多くの人が黙って式典を見つめていた。
帽子を深くかぶった年配の女性。日傘を差しながら手を合わせる家族連れ。
それぞれがそれぞれの想いを胸に、この日を迎えているのだろう。

式典会場の中には、すでに多くの人がいた。
そして、これから入ろうとする人たちも列をなし、金属探知機などのセキュリティゲートに並んでいた。
しっかりとした警備体制。ここがどれだけ大切な場なのかが伝わってくる。

私もその列に加わろうかと一瞬思った。
けれど、なぜかその気にはなれなかった。
立ち止まり、周囲を見渡すと、木陰や芝生の上に座っている人々が目に入った。

木陰では、帽子をかぶったおじいさんやおばあさん、若者たち、親子連れ、
老若男女、さまざまな人たちが思い思いに時間を過ごしていた。

その表情は実にさまざまだった。
厳かな空気をまとい、静かに祈るように座っている人もいれば、
正直に言えば、「今日はちょっとイベント気分で来ているのかな」と思える人もいた。

でも、どんなかたちであれ、この日に「ここに来る」ということ。
それを大事にしているという事実。
それだけで、この日がただの過去ではなく、今も生きている時間として人々に受け継がれているんだと思った。

沈黙ではなく、日常の延長線にある記憶として。
この場所には、そんな空気が漂っていた。

式典会場の脇を、私は静かに通り抜けた。
その先に広がっていたのは「平和の礎(いしじ)」──
沖縄戦で命を落としたすべての人々の名前が刻まれた、巨大な石碑群。

実は、この場所に足を運ぶのは初めてだった。
「ある」ということは知っていた。でも、まさかこれほどまでとは──
想像を遥かに超えるスケールに、息をのんだ。

海へとまっすぐ伸びる一本の道。
その両脇を囲むようにして、黒い石碑がずらりと並んでいる。
そのひとつひとつに、人の名前が刻まれている。

ここに書かれているすべての名前が、戦争によって命を落とした人々のものだと感じながら、
何かが胸の奥で静かに崩れるような感覚があった。

一人ひとりに、それぞれの人生があった。
家族がいた。友がいた。
笑った日も、何気ない日常も、きっとあったはずなのに。
そのすべてが、戦争という理不尽な力によって断ち切られた。

名前の数だけ、物語がある。
声なき声が、今もこの石に宿っているような気がした。

海に向かう風が頬をなでる。
そのやわらかな風に、「忘れないでね」と語りかけられている気がした。

平和の礎を歩く中で、私はただ圧倒されていた。
石碑の前に立ち尽くす人々の姿──その多くが、静かに花を手向け、深く手を合わせていた。

まるでひとつの儀式のように、誰もが丁寧に、そして真摯に祈っていた。
亡き誰かに「あなたを忘れていません」と伝えるために。

そこに刻まれている名前は、きっと誰かの家族だった。
親、祖父母、叔父や叔母、あるいは兄弟。
すぐ近くに感じられる関係が、その石に刻まれていた。

それでも誰ひとりとして、涙を誇張するような人はいなかった。
静かで、深い祈り。
たとえるなら、それは風に揺れる木々のようだった。
声には出さずとも、確かにそこに在る祈りだった。

今、この場所で手を合わせている人たちの姿こそ、
この日が、ただの「過去」ではなく、今も生き続けているという証のように思えた。

平和の礎を抜けた先に、視界がふっと開ける場所がある。
木陰と石碑のあいだから差し込む光が、そこでは一気に広がり、
青い空と、澄み渡るような海の水平線が視界いっぱいに広がっていた。

その広場の中央に、静かに、けれど力強く燃えている炎がある。
「平和の火」と呼ばれるモニュメント。
沖縄本島、宮古、八重山──戦火の及んだすべての地の火を集めて灯されたという、その炎は、
今も絶えず燃え続けていた。

正午になると、あたりがすっと静かになった。
炎の周りに人が集まり、手を合わせはじめた。
ただ、心をひとつにするように、同じように黙とうの姿勢が取られていく。

「安らかにお眠りください」
言葉にしなくても、全員がそう願っていることが、空気から伝わってきた。
この時間、この場所でだけ生まれる一体感が、確かにそこにあった。

燃え続ける炎は、強く、そして優しかった。
それは過去を責めるための炎ではなく、未来を照らすための火のように思えた。

この火の前に立って、ようやく少しだけわかった気がした。
なぜ、今朝「行こう」と思ったのか。
なぜ、すべてが導かれるようにここに辿り着いたのか。

「忘れてはいけない」
でもそれだけじゃない。
「今をどう生きるか」を問いかけてくるこの場所に、
私はようやく立っていた。

式典会場には、もう戻らなくていいと思った。
もう十分だ、と感じた。
祈りを見届け、炎を見つめ、私の中で何かがすでに完結していた。

シャトルバスの乗り場に向かって歩きはじめたそのとき、
ひとりの老婆の姿が目に留まった。

白いゼッケンを身にまとい、そこには
「沖縄県遺族連合会」「日本遺族会」と書かれていた。

腰が少し曲がっていて、ゆっくりと歩いていた。
ああ、戦争の遺族というのは、もうこういう年齢の方たちなのだ──
その現実を、静かに突きつけられた。

おそらく少しずつ、この戦争について「語れる人たち」は減っていく。
それは時間の流れの中で避けられないこと。
だからこそ、誰かの「語り」だけに頼らず、
一人ひとりが「これは自分たちの国で起こったことなのだ」と、
自覚し、心に刻んでいかなければならない。

戦争が良いとか悪いとか、そんな単純な話ではない。
でも、理不尽に命を奪われることが、あってはならないということだけは、
絶対に忘れてはいけないと思う。

私は理不尽が嫌いだ。
20年前からカンボジアにも足を運び、戦争の傷跡を見てきた。
親を失った子、教育の機会を奪われた人々、地雷で手足を失った人たち──
そこにも理不尽があった。
そして今も、世界のどこかで続いている。

争いが嫌いなのはもちろんだけど、それ以上に、
「理不尽に、人の尊厳が壊されていくこと」が、どうしても許せない。

だからこそ思う。
声高に「戦争反対」を叫ぶことだけが大切なのではなく、
一人ひとりが誠実に相手を尊重し、
助け合い、支え合える関係を日々築いていくこと。
それが、戦争を必要としない世界への、本当の一歩なのではないかと。

誰かのせいにしない。
何かのせいにしない。
その代わりに、自分にできる誠実さを、今日の暮らしの中で生かしていく。

平和とは、特別な理念ではなく、
目の前の誰かに向ける「まなざし」から始まるものだと思う。