愛媛・松山へ

7月9日。早朝の便で愛媛・松山へ。そりゃ当然だろという話だけれど、実は7月1日の電話以降、すぐに課題に直面した。
資金をどうするかだ。
そこでクラファンをしようということになったのだが、
「期間も短いしなかなか難しい」
というのがクラファンプラットフォームの担当者の方のご意見だった。

かと言ってそうですかとそこで諦めるわけにもいかず、ならば知り合いに支援をお願いするフレンドファンディングにチャレンジしようと思ったが、致命的なのは私と高山さんの関係の短さだった。
ストーリーがなく、私が思いつきで撮りに行きたいと言ってるだけにしか見えなかったのだ。
確かにそれはそうなのだが。。。

そのタイミングで高山さんから「一度松山に来なさい」というご連絡を頂いたので、すぐに飛行機を予約して松山へと向かったのだ。

ちなみに、7月11日からタイ・バンコクへと仕事に行くという、なかなかタイトなスケジュールの中だった。

坂村真民さん

松山空港へ到着。空港へは高山さんが車で迎えにきてくれた。
高山さんは地雷処理現場以外ほとんどの場所で雪駄を履いているのだが、この日ももちろん雪駄姿だった。
高山さんと合流するやいなや、何人もの人が高山さんに声をかけに来る。その様子は芸能人かと思うくらいだった。

車に乗り色々な話をしていく中、「廣瀬さんは真民さんを勉強しないと」と高山さんから言われた。
そう言われ「はい」とは返事をしたものの、真民さんを存じ上げなかった私は、坂村真民記念館に連れて行って頂いた。

坂村真民さん。
1909年(明治42年)、熊本県玉名郡府本村(現・荒尾市)生まれ。
8歳の時、父親が急逝し、どん底の生活の中、母を支える。神宮皇學館(現・皇學館大学)卒業後、熊本で教員となる。
その後、朝鮮に渡って師範学校の教師に。
終戦後、朝鮮から引き揚げて愛媛県に移住。
高校の教員として国語を教え、65歳で退職。
58歳の時、砥部町に定住し、92歳で砥部町名誉町民に選ばれる。2006年(平成18年)97歳で砥部町にて永眠。
20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。

一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
(参照:坂村真民記念館HP)

「私でも悩んだり迷ったり、落ち込んだりする時がある。そんな時はここに来るんだよ」
そう言いながら、一つずつの詩の前に立ち止まり丁寧に読んでいく高山さん。

情熱を持ってひたすら走る人が必要とする癒し、その場所がここにあった。

本気の人

本気になると世界が変わってくる
自分が変わってくる
変わってこなかったらまだ本気になってない証拠だ
本気な恋
本気な仕事
ああ人間 一度こいつをつかまんことには
(坂村真民著「愛の道しるべ」より)

何より印象的だったのはこの詩の前に立ちデジカメで写真を撮る高山さんの後ろ姿だった。本気で動いている人も、この詩の前に立ち止まる。私も本気でこのプロジェクトをやるんだ、そう決意を確かめた。今思うと、本気のままでは貫けなかった。だから改めて今本、気でやろうと思っている。

ちなみに、私的に真民さんの詩で他に好きな「念ずれば花ひらく」も紹介したい。

念ずれば花ひらく
苦しいとき母がいつも口にしていたこのことばを
わたしもいつのころからかとなえるようになった
そうしてそのたびわたしの花がふしぎとひとつひとつひらいていった
(坂村真民著「念ずれば花開く」より)

松山での坂村真民さんとの出会いはとても有り難く、このプロジェクト、とくに前半のフレンドファンディングをする際には、本気で前に進むために私を励ましてくれた。
これまでの間この出会いとこの詩のことを忘れてしまっていたけど、いまこの2025年2月にこうやって振り返っているおかげで、またこの詩を心に残しておきたいと思った。

松山発バンコクへ

もちろん真民さんとの出会いだけが松山での出来事ではなく高山さんからフレンドファンデイングを応援していただく趣旨の動画を撮らせて頂いたり、このプロジェクトの資金調達の上で要となるご協力を頂いた。
本当に有難うございます。

こうしてわずか1泊2日の松山滞在を終え東京へ、そして深夜に自宅に着き荷物を持ち替え、早朝に羽田空港からタイ・バンコクへ旅立った。

坂村真民記念館のご案内

〒791-2132 愛媛県伊予郡砥部町大南705
http://www.shinmin-museum.jp/